歴史・由来
徳島と香川県の県境にある阿讃山脈から南流する黒谷川に向かって張り出した標高70m前後の尾根の緩斜面上に南向きに大日寺伽藍が配置されている。
弘仁6年(815年)に弘法大師がこの地において大日如来を感得し、一刀三礼をして1寸8分の大日如来像を彫造したことを由来として大日寺と称するようになったと言われる。
元禄2年の『四國遍礼霊場記』(寂本1631-1701)では、かっては立派な堂塔が並んでいたものの、歳月の経過とともに、荒廃していた、と記されている。その後 応永年間(1394-1428)に松法師という人物に夢の託言があって修復がなされたという旨が『阿波史』文化12年(1815年)に記されている。その後、また荒廃したが 徳島の二代目藩主、蜂須賀忠英が慶安2年(1649年)に材木を寄進し、本堂一宇を建立して以来、 天和(1681年)・貞享(1688年)までに再興されている。その後も元禄5年(1692年)に五代目藩主 蜂須賀 綱矩が、寛政11年(1799年)に11代目藩主 蜂須賀 治昭がそれぞれにこれを修復して、今に至っている。
また、この地は三方を山に囲まれており、黒谷と呼ばれていることから、地元では「黒谷寺」と呼び習わされることもあった。
山号である黒巌山の由来もこのことに因んだものとされる。現在、京都の東寺の末寺としてあるがそれは明治20年以降のこと。それ以前は真言宗御室派に属していた。僧堂(庫裡)の軒丸瓦や入口の透正面かし欄間に寺紋の十六菊紋が見受けられる。
平成25年(2013年)に徳島県教育委員会により発掘調査を含む文化財調査が実施された。調査書によれば本堂(大日堂)の後方には「天照大神」と注記された建物が描かれている書物『四國遍礼霊場記』(元禄2年(1689年)があったのに対して、『四国遍禮名所図会』寛政12年(1800年)では、そういった注記がされていないことが確認されている。他には本堂北側に鎌倉時代以降の遺跡が存在したことや、境内地及び周辺に五輪塔など中世の石造物が散布すること、瓦陶兼業の可能性がある12世紀頃の窯跡が存在したことが明らかになっている。同遺構は 江戸時代前期に行われた新たな造成工事により破壊されたと考えられる。周辺で確認された五輪塔や舟形五輪塔、窯資料の分布などから考え合わせると、当地には中世に遡る宗教的な施設が存在した可能性を示唆するものと考えられている。
本山・開祖
元禄2年(1689年)の寂本という僧侶によれば「四国遍礼霊場記」や文化12年(1815年)の「阿波誌」の記述に応永年中(1394-1428年)に松法師なる僧侶が荒廃した寺院を再建したと記述がされている。
大日寺は 称徳4年(1714年)に御室仁和寺の直末寺となっている。かって明治前期に住職であった泉智等は真言宗御室派の官長となっている。その後、明治時代に東寺(京都)の末寺となっている。
寺院概要
所在地 | 〒779-0113 徳島県板野郡板野町黒谷字居内28番地 |
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電話 | 088-672-1225 |
開門時間 | 開門 午前6時~午後5時 納経所 午前7時~午後5時 |
宿坊 | なし |
駐車場 | 普通20台・マイクロバス/大型5台 (参拝者に限り駐車可能/無料) |